パナマ運河の歴史 パナマ運河新条約が誕生

パナマ運河に対して、 アメリカの支配権を本質的に変えるものではありませんでした。

パナマ運河の条約は、1936年、1955年の二度にわたり改訂されることになりますが。

まだまだ、パナマ運河建設の歴史は、現在に至るまで続くことになります。

暴動が起こる

誰が、パナマ運河を支配し、管理して行くのか、ここには激化した争いの歴史も決して語らないわけにはいきません。

アメリカでは、 運河地帯にパナマの国旗を掲げることまでは許すことになりますが、アメリカ人が運河エリア内で、パナマの国旗をおろしてしまった……という事件を引き金として、再び、暴動が勃発することになります。

アメリカとパナマはパナマ運河をめぐって、依然険悪なムードが続いたままです。

このままではいけないということで、アメリカとパナマでは、話し合いも進められていくことになります。

そして、1974年2月には、アメリカのキッシンジャー国務長官と、パナマのタック外相の間で、8項目にわたる基本原則について合意に至ることになります。

しかし、これに対しての、細かい取り決め交渉は、1976年のアメリカ大統領選のせいで実現することがありませんでした。

新条約が作られる

そして、1977年1月に就任することになるカーター米大統領が、パナマ運河が抱える問題を対中南米政策の一番優先すべき課題として取り上げ、9月7日には、トリホス・パナマ将軍との間で新条約(「パナマ運河条約」、「パナマ運河の永久中立&運営に関しての条約」「パナマ運河の永久中立&運営に関しての条約附属議定書」)に署名することになります。

パナマでは1977年10月23日、国民投票によって批准承認されることになりますが、 アメリカでは、 上院の批准承認が想像している以上、難航極めることになります。

そして、1978年3月16日に「中立条約」が、また4月18日に「運河条約」が、それぞれ多くの付帯決議を付した上で批准承認されることになります。

パナマ運河新条約の事実上の批准書の交換

1978年6月16日、カーター大統領は、パナマに訪問し、トリホス将軍とパナマ運河新条約の事実上批准書の交換をすることになりますが、新条約を実施するに必要な予算措置についての米下院の審議は依然難航したままでした。

そして、新しい条約は1979年10月1日に発効することになります。

パナマ運河新条約が誕生して、アメリカでは、自国政府機関のパナマ運河委員会(PCC:Panama Canal Commission)を通じて、運河の管理や運営、維持を行うことになります。

委員会の仕事は1999年12月31日正午をもって終了し、これ以後は、パナマ政府において運河に関する全ての責任を負うことなります。

パナマ政府は1994年12月に憲法改正を行って、2000年以降パナマ運河を管理運営する機関(パナマ運河庁)に関しての項目をパナマ共和国憲法に追加することになりました。

そして、パナマ運河庁設置法案が誕生します。

このような流れで全て仕事はパナマ運河庁に引き継がれることになります。